ミスティック・リバー
(Mystic River) [2003.米] ☆☆☆☆
監督:クリント・イーストウッド
STORY:ジミー、デイブ、ショーンの3人は、悪ガキ仲間。低所得層住宅が入り組んだ路地でホッケーに興じる少年たちに、ある日、突然事件が起きた。警官を名乗る2人連れが絡んできて、3人の内からデイブだけを連れ去ったのだ・・・数日後デイブは暴行を受け、ボロボロになって戻ってきた。そしてそれ以来、3人は一緒に遊ぶことはなかった。・・・それから25年、同地区で殺人が起きる。被害者は今は雑貨商を営むジミーの娘。捜査を担当するのは刑事になったショーン。やがて捜査線上にデイブの名が浮かび、3人の人生がクロスしたとき、悲劇の河が動き始めた・・・04年アカデミー賞でショーン・ペンが主演男優賞、ティム・ロビンスが助演男優賞を受賞。
CAST:ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコン、マルシア・ゲイ・ハーデン、ローラ・リニー、トーマス・グイリー、ローレンス・フィッシュバーン、エミー・ロッサム
イーストウッドの抱える闇は果たしてどこまで深いのか。何故ここまで悲劇を冷徹な視点で見つめつづけることが出来るのか。物語の底辺に流れるのは【十字架を背負って生きている者たちは孤独であり続けねばならない、そしてこの映画の登場人物たちのように、ほとんどの大人たちは十字架を背負っている、だから誰もが孤独なんだ】・・・というオブセッションじみた視点。(あの執拗なまでに十字架にこだわった演出!指輪、ネックレス、壁掛け、そしてタトゥ!)おそらく、これはミステリでもなければ家族愛と復讐の物語でもなく、絶望を見据える映画ですらなく・・・・ただただ「罪」の意味を問いたかった映画なんではないだろうか?
ここには人間への絶望しか見えない、という意見ももっともだと思うし、誰もが愛することができる映画だとは思わない。というか、私の場合、そもそも今もこの映画が「好きか嫌いか」と問われるとまだ答えられない。凄い映画だとは思うのだが、その十字架に象徴されるように「神的なるもの」「原罪」への呪縛(というより呪詛に近いのかもしれない)がどうしてもスクリーンとの間に薄い皮膜のように貼りつき続けていて、信仰や宗教的概念の薄い私にはどうしても入り込めず距離を感じてしまったのも事実。
それでも、この緊張感と痛みは心に響く。人の「罪」と「罪悪感」の連鎖が生む悲劇そのものでなく、その悲劇がゆるやかに始まる瞬間の緊張こそ、この映画を牽引しているパワーだろう。あの日、もし虐待を受けたのが彼ではなく自分だったら。彼を救えなかったことの重荷が、少年たちを大人にしても苦しませつづけ、やがて別の悲劇が始まったときに哀しみや苦しみが連鎖していってしまう。人の心は何故ここまでももろいのか。人は何故「自分」を守るために残酷になれるのか。その緩やかに心が崩れゆくさま、「罪」が始まる瞬間がぞっとするほど生々しい。
役者のなかで強い印象を残すのがマルシア・ゲイ・ハーデン、ローラ・リニー(普通なら逆のキャスティングになりそうだけど・・・二人とも素晴らしい!より「罪」の怖さを際立たせていた)、そしてケヴィン・ベーコン。抑えたトーンの徹底が見事。ハリのある低い声で(この人こんなにイイ声だったっけ?)、丁寧に感情の隆起を表現していていく。逆にショーン・ペンの絶叫、ティム・ロビンスの後姿などは「巧いのが分かってる人たちだからなあ・・・」という印象に近い。それでもやはり、圧倒的なパワーを感じるけれど。
ラストシークエンスで感じ続けたやるせなさ、絶望感がラストのワンショットで異なるものに変わっていった・・・というのは楽観的に過ぎるかもしれないが率直な私の印象。絶望の果てにひろがる深き河。真実の眠る河。ミスティック・リバー。けれど河は罪など流してくれない。人が生きる限り贖いつづけねばならない罪を、見続けて、その奥底に眠らせているだけなのだから。あの街にいる限り、河は彼らに罪を突きつけ続けるだろう。彼らの「これから」の選択は、もうタフネスだけでは解決できない。河が流れる限り、罪は消えない。「赦される」ことはきっとない。 (2004.3.17)
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